昭和46年12月23日 月次祭★★



 信心も手習いも同じこと。または、「信心はちょうど、学者が年をとって、眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞえ」とも申し上げてます。信心は、一段一段進んで行くもの。一段一段登って行くものでなからなければならない。
 ただ拝んでおりますと、お参りをしておりますと言うて、ね、その心の状態が、ひとつも変わっていかないとするなら、これは信心の稽古をしておるとは言えない。「それは学者が眼鏡をかけて本を読むようなもの」ということは、学者は、いわゆる漫画を読んだり、小説を読んだりと言うのじゃない。やはり自分の志す学問の研究をするという意味なんです。
 ですから、もうそれは、自分の知識が、学徳が進んでいくことが、もう楽しいのです。だから、「学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ」と仰せられた。信心は手習いと同じこと。ね。いわゆる、手習いをさせて頂いておって、去年書いておったのと今年書いておったのを見ると、格段な、そこに上達の差ができておることが楽しいのである。ね。そういうものでなからなければならないと、信心は。ね。ですから、信心に、もう修行はつきものである。
 先ほど、お祭りを奉仕、一時間程前に久富さん帰ってみえられた。久富繁雄さん。「先生、今朝方からたいへんなお夢を頂きました」とこう言う。親先生が、私が、この前持っとりました、親先生が「あんたは危ない、あんたは免許を持たんから私が運転する」と言うてからその、運転をされる。そして、助手席に繁雄さんを乗せられて、それからその、山へ向かってその、登って行くところを頂いた。
 ところが、その山の、に登って行くところが、その上からです、まあこれは、何々教とか何々宗というて他のことを悪口言わなければなりませんけれども。まあ言うならば、程度の低い信心。ね。程度の低い人達がです、もうのぞれ打って上から下へこう降りてきておるところを頂いた。
 それに私どもは、車に乗ってその、登っておる。そして、「これからは車が登らんから、さあこれからはひとつ歩いて登らにゃいけんな」と言うのでから、「ああそうですか」と言うて、お供さしてもらって、ちょっと振り向いたところが、確かに親先生であったはずが、上野愛子先生に変わっておられた、とこう言うのである。
 どういうことと思いますか。ね。私の言うところ、私の願うところ。それはまず、天地の親神様の言うておられることであり、天地の親神様の願うておられるところだと、私は頂かにゃいけんと思うんです。ね。上野愛子というのは、「最高の愛」という表現でいつも頂きます。ね。
 幹三郎の、いよいよあの手術の日に、さあ、もう三十分後から執刀、いわゆる手術が始まる。もう皆様ここにいっぱい詰め掛けて、一生懸命勢祈念をしておる。私は、ここで御結界に奉仕さして頂いておった。ね。もうあと二十分で、あと十分でというように、もう刻々とその、手術をされる時間が迫ってくる。ある方がその事をお願いなさいましたら、神様、御心眼にね、★勝手の方で、上野愛子先生が一生懸命看護婦さんの格好をして、いわゆる勝手の方で一生懸命御用をしておるところを頂いた。
 勝手の方ということは、「ままになれば」ということであろう。上野愛子先生が白衣を着て、いわゆる看護婦さんの姿でおられるということは、もう天地の親神様がメスをとってくださるんだ、と私は実感した。天地の親神様が手術をなさるんだ、神様がご手術をなさるんだ、と頂いた。ね。
 というようにです、上野愛子というのは、そういうような場合にいつも表現して下さる、天地の親神様が。ね。上野先生が腹かいてござっ時も、だから天地の親神様が腹かいてござる時と思ても間違いない。上野先生がブーってしとるなら今日は、天地の親神様がブーってしてござるから、こっちに何かやっぱ思い当たることはないかっち。(笑)いうふうにですね、頂かきゃならん。合楽ではそんなふうに頂いておる。ね。
 その親先生と一緒に山登りをしておる。けれどもです、他の程度の低い人達はね、楽を求めて楽な、ただおかげをおかげを求めて、のぞれ打って楽な方へ楽な方へと下っておるのに、私と繁雄さんだけは、山の上登って、「もうこれからは自動車にも乗られんから歩いて登ろう」と言うておる。
 確かに後ろにござった親先生がござったから、( ? )振り返ってみたところが、親先生が上野愛子先生に変わっておられたと。というところで目が覚めたというわけです。ね。
 金光様のご信心は、もうどこまでもです、もう「修行に明けて修行に暮れる」でなからなければならんのです。それはちょうど学者が、ね、「年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい」ということなのです。金光様のご信心は。
 先程も誰かが言っておられましたね、あっ、西岡君が言っておりました。今日西岡さんが前講でした。ね。ある方が西岡さんに「金光様の信心ちゃ難しかですね」ち言った。そら難しから、からこそ有り難いのだ。難しかからこそ一生懸けて、この信心に取り組まして頂く値打ちを感ずるのだ、というわけなんです。ただ見よる。「まあ、拝みさえすればよかろうの」「もう、ちょいと(おんぴおんぴに?)参りゃそれでいいですよ」っち。「それでおかげを頂きます」よ。「分からんとこお尋ねしとったっちゃ、便利が良かです」といったような信心ではない。もう分かれば分からして頂くほど底がない。高めさして頂けば高めさして行くほどきりがない。
 そこにです、ね。広大無辺のおかげに繋がる道が開かれてくるのです。ね。その広大無辺の、今まで分からなかった文面が開拓される。分かっていく。いわゆる、学者が眼鏡をかけて本を読むようなものである。学徳が付いてくるのが分かる。今まで知らなかった新知識が身に付いてくる。だから、死ぬまでやはり、眼鏡をかけてでも本を読まなければおられんのである。
 もういくつになったら隠居しようといったようなものではない。そういう信心をです、今日、西岡さんは、ね。私はもうこの年になってです、ね、今度は学院行きを決心したことを話しておられました。私と同年なんです。ね。もうたいへんな勇気がなからなければとてもできることじゃないです。まあだ高校出た人達ばかっりの人達と一緒に、一年間起居を供にしなければならんのですから。ね。勉強していかんならん、修行してかならんのですから。もうおじいさんと言われるような、その、ことですから。
 先生方の中には、若い先生方もおられましょう。その若い先生達に、やはり指示しなければならないのですから。ね。あれを思いこれを思いするなら、やはりそこにほんとの決心がなされなければ、できることではない、勇気を出さなければできることではない。
 不幸にして最愛の家内を亡くした。ね。子供達もあっちこっちへ遠い所に子供達、いわゆるかわいい孫達とも一緒におれない。けれども、そういう時期にです、ね、合楽を知った、親先生を知ったということが、私のこれからの生涯を懸けてこの先生に指示してもらい、させてもらい、この信心をいよいよ身に付けていくということにです、これからの生き甲斐をそこに感じた、と言うて話しておられた。ね。
 だんだん分かってこられた。最近のことなんですけれども、私はもう取り分け、西岡さんには、もう一年間ここで修行されるのにも、人情というものをさらさら、まあまず使わなかった。ね。
 さあ、お神酒の下がっても、「西岡さんこっちにこんの。ちょっと頂きなさい」ともお茶を頂けとも、「お茶一服頂きなさい」とも、それはもう冷たいまでに私は言わなかった。これだけは絶対言わなかったですから、もう自然、黙々として自分一人の信心になっていかれた。
 最近私、心境が開けて行かれるのがめざましいということは、朝の御祈念が終わって、御理解が始まるともう、人を押し退けてこの一番前に出て来られることですね。それこそ朝から晩まで私の御理解に取り組ませて頂いて、「もうなんと有り難いことであろうか。なんと素晴らしいことであろうか、と感動しながら頂いておったら、繰り返し頂いておったが、実は、もっともっとそれでは足りなかった。もうできるなら親先生の側でです、それこそこのしぶきがかかる側で、お話を頂きたい、そのありが、その事がです、もう最近分からして頂いて、一年間ほんとうにおしいことをした」と言うておられます。ね。
 おお、ああっちの方座っとらんと、眠られんけんち言うちから、わざわざそんなもん座る人がある。前に出てくると眠られん。ね。ほんとにです、私は道を求めるということは、そういうことではなかろうかと思う。ね。
 今度青年会の方達が、バス一台を借りきって元旦祭に参拝のおかげを頂きます。今度は団長が、むつ屋の石井信司さんが団長いたしております。青年会長の嘉郎さんが、そういうことであってお取次ぎを頂いた。「パンフレットを作らせて頂かなければならんから、何かパンフレットの飾りの所へ、何か親先生に一筆書いて頂きたい」と言うた。
 今度のお願いさして頂いたら、道、なんだったっけ。
 (ご信者さんの声)求道とは神の願いに応えることです。

 ああ、求道とはね、★「求道とは神の願いに応えることだ」と頂いた。ね。求道。
 例えば学院などにまいりますと、これはもう求道生活なんです。もう皆さんが信心の稽古をなさるということも、これは求道生活なんです。道を求めて求めてやまない、その止まない心が、朝参りになり、こうしたお参りになるってのが金光様のご信心なんです。ね。それは神の願いに応えることだもん、ことなんだと。ね。
 ならその神様は、どういうことを私どもに願うておられるだろう。ね。立教神伝のなかにもございますように、ね。教祖金光大神に天地金乃神様が、ね。それこそ地を低うして「金光大神、天地金乃神を助けてくれ」と仰っておられる。天地金乃神を助けるということ。ね。その天地金乃神様を助けるというほどしの、素晴らしい大きな信心がないと。そりゃそうですよね、天地の親神様を助けるというのだから、こんな大きな信心はないです。だから行き詰まりがないのです。ね。
 天地金乃神様ばっか助けたっちゃ、こっちが助からんならどうこうできんっち。(笑)もう天地金乃神様が助かられるということはです、私どもが助かるということなんです。その助かりがです、ただ病気が治りましたとか、ね。金銭のお繰り合わせを頂いたという意味ではなくてです、私の助かりがそのまま天地の親神様の助かりに繋がるような、そういうほどしの信心だということ。ね。
 神様の願いに応える。それが求道なのだ。そこで、神の願いが、言わば具体的に分からなければならん。ね。それを極言すると、「天地金乃神を助ける」ということになるが、そんなら天地金乃神様を助けるということは、お互いの、銘々の立場で、どのような生活状態、どのような生き方、どういう信心にならせて頂いたら、神様がいわゆる喜んで下さると言うか、助かって下さると言うか。ね。そういうことになってくるのです。
 今日は皆さん、前の方は分かったでしょうが、大盛りの前に、日本橋のなんとかっていう海苔ですかね。ああ「山本山」の海苔がお供えになっておりましたですね。テレビでよくやってますね。「上から読んでも山本山。下から読んでも山本山」というのです。
 ちょうど、この前のお月次祭の晩でした。もう久しぶりでお月次祭にお参りしてきたという方が、私が、下がらせて頂いたら、(琴の間?)でちゃんと待っとられました。久しぶりでしたから、まあいろいろお話を聞かしてもろうたり、話させて頂いたんですけれども。先生、今日のお月次祭も、またその時の月次祭はもうほんとに、あの何ですか、座布団がたくさんお供えに出た時のお月次祭です。ね。大盛りが三台出てました。それに、両袖にあの、二十万円のあの大きな座布団ができましたから、もうえらいこう豪華に見えた。
 「親先生、ますますあなた、あなた一人でおかげ頂いてしもちから。もう信者のおかげばあなたが吸い取りよんのってはないですか」ち言われたです。しかし、私は、ほんとにそれを聞いてですね、何かほんとに冷っとするものを感じました。
 ほんとにそういうようなことがありうるのではなかろうかと。私がおかげを、皆のおかげを吸収してしもうて、他の方達は、ピーピー言いよるといったようなことになっとるのじゃなかろうかと。「親先生、あなただけでおかげば独り占めしてから」ね。「信者のおかげは、あなたが吸い取ってしまいよるのとじゃないですか」と、もう冗談ともほんととも分からんようなことで、いろいろのもの聞いて、私はそれを感じた。
 どうも、休んだけれども、その事が心に引っかかって休まれん。それから十二時ちょっと前に、ここへ出てまいりましてから、その事を神様にお願いさして頂いたら、★今の「山本山」と頂いた。「上から読んでも山本山。下から読んでも山本山」もう、どこからなか、どこから眺めてもです、修行体ということなんです。
 金光様のご信心をさして頂くのならです、ね。お食事をさして頂きよっても、ね。もう何をさして頂いておっても、そこには、修行という内容がなからなければならない。御神意を体しておらなければならない。
 「何事にも信心になれよ」ということは、もうどのような場合にあっても、修行の心を怠ってはならないということなんです。「上から読んでも山本山。下から読んでも山本山」
 中には、それこそ色は黒ても、ね。炊くもの(   ?   )なかったね。(ただにがかったですよね。?)色は黒ても(浅草間際?)っちゅう名前。「米のおまんまの肌を巻く」という。ね。
 それこそ浅草海苔のようにです、黒い、いわゆる苦労をさせて頂いておるけれども、それを私ども、苦労と言うてはならない。それを修行として頂かなければならない。しかも、その修行は、一段一段高められて行く、楽しい、限りない有り難い修行でなからなければならない。それが、全てがままになるというおかげに繋がるのです。
 「幸せ」という字を上から読んでも「幸せ」と読むなら、下から読んでも「幸せ」であるように、と読むように、ね。私どもの幸せというのはです、ね。西岡さんの今日の前講ではないですけれども、これからをです、生涯懸けてです、ね。お道の信心に打ち込むということは、神様の願いに応えまつるところの信心をさして頂いて、ね。毎日、私を取次ぎ者としてお取立て下さるならばです、自分自身が助かり、人もまた助かって行く、そういう助かりを求めて信心の稽古を生涯懸けてさせて頂こうという。ね。
 お互いがです、銘々、真実助からなければならない。んなら、助かるということはどういうことかと言うとね。昨日は、商売が繁盛したから助かった。今日は、商売がひとつも売れんどころか反対に引っかかってから損したと。昨日は有り難いけれども、今日は有り難くないと言うのではなくてです、ね。儲かったことも有り難いなら、損したこともまた有り難い、と分からせて頂く、それに神意を体しなければ分からん。神意が分からなければ分からん。神様の心が分からなければ修行はでけん。ね。神様の心が分かるからおかげになるのである。いや、修行ができるのである。いや、その修行が楽しゅうなるのである。
 もう這いも立ちもできらんほどしに、もうへとへとになって、借金の断りにやらせて頂いておったその間に、ね、道で会った、電車の待合所で私に、ね。私に、私の心の状態を知ってか知らじでか、とにかく、先日、相撲を見に行って、ね。相撲のお弟子さん達を師匠達が、土俵上で鍛っておるという様子を見て来て、もうとにかく相撲取りぐらい厳しい修行をするものはない。あれをもし親が見とったら、とても相撲の弟子にはやられまい、と思うような激しい修行をつけておったと。
 もうそれはもう、突くこと転ばすこと、もう何遍も何遍も突き倒されたり、張り倒されたりして、もういかんからごそごそ、立ちきらんなん、土俵の下へ這い下って行きよるのを、こう捕まえて来てまた、こう立ち上がらしといてからぶったくる。もうとにかく、横から見とって、見られたもんじゃない、という話を聞かせて頂いておるうちにです、私の心の中にね、もうそれこそ、這いも立ちもできんごたる気持ちで借金の、もうそれこそ十何回目かの断りにやらせて頂いておった私の心の中にです、ね。はあ、とても、何の為にね、突いたり押したりするのか。何の為に、もう、もう這い、土俵の下に這い降りて行きよるとを捕まえてきとっては、またぶったり殴ったりする。憎いからか。決してそうではない。「これはちっとは見込みがあるぞ」と。「末は横綱か、でなかったら大関ぐらいまでは行くかもしれん。だからいっちょこいつを、いっちょ本気で鍛うてやろう」というのが、師匠の願いであって。
 これは大坪総一郎には見込みがある。ね。末はそれこそ、大関か横綱かという願いがかけられておるからこそ、ね、やはり、そういう厳しい修行をさして下さるんだと思うたらもう、有り難うして有り難うして、もう元気いっぱい。もうへとへとで、もうどげん今度は借金の断り行って言われるか分からん、と思うておったけれども、もうそれこそ意気揚々として、それこそ金ば( ? )ごたる気持ちで断りに行った。もう人間って不思議なもんですよ。
 それまでね私は、借金の断りに行く時には、その人が(  ?  )とです、その人方がグリッと小さい道になっとりますもん。そこの道のぐるいをね、正面玄関の所で入ろと思ても、足が向かんそこへ。それけん、グルグルグルグル回って、もう何回も何回もグルグル回って、もう一生懸命の思いで中に飛び込んようして入って、借金の断りを言うた。
 けれどもね、その日は不思議に、私の心の中に、神様の心が分かった。ね。神様の心が分かったら、もう勇気百倍。もうそれこそ、もう有り難うして有り難うして、親なればこそ、師匠なればこそ、このようにして修行させて下さるんだ、と思うたから元気が出た。
 それっきりでした。「もう大坪さん、こげん何べんも来んでよかろう。もうあんたができた時払うてくれんの」て、もうそれっきりでした。もちろん、その後において払わして頂いたんですけれどもね。ね。
 そういう、言わばおかげがですね、それこそ夢にも思わないようなおかげが展開してくるんです。だから、苦労、「どうしてこげんいつまでも修行せんならんだろうか。苦労せんならんだろうか」という中にはだん、その神意が分かる。心が分かる。親神様の心を体して、私どもがおかげを頂いて参りますところからです、ね。これはもう不思議に、どこから湧いてくるか分からん有り難い心が湧いてくる。力が湧いてくる。有り難涙がこぼれてくる。
 そういう中に、修行をさせて頂くというのですから。ね。しかもそんなら、そういう修行がいつまでも続いたらいけません。学徳が進んで行く学者のように、その修行も、だんだんだんだん、高尚な修行、優雅な修行。ね。そういう私は、修行にだんだん取って代えらえれていけれるだけの信心が進展していかなければならん。
 いうぐらいに、四日からですか、また寒中修行が始まります。今度はもう、寒中修行からはもう、皆意気込んでおられます。ね。その寒中修行が始まる、まあ、その前提としてです、まあ、今晩からここの若い先生方、修行しとる方達が、例のお滝場に、お滝の水を頂きに行きます。もう行きました。今、お祭りが済んでから皆行きました。ね。
 この寒中に、何の為に寒の水を頂かなければならんのか。ね。何の為に山に登って、もう寝てから、そのぬくぬくとした風呂でも入って寝た方が良かろうごたるなかにです、わざわざ皆が寝る時間から、山に登らせて頂いて、しかも凍りつくようなです、それこそ凍てつくような氷を、の割って水をかかってくるような修行をなぜするか。ね。
 そこにはね、神様の心が知りたい分かりたいという一念がね、そういうことにもなってくる。かというて、そういう修行がです、ね。いつまでもいつまでも続くようなことであってはいけないのが金光様のご信心なんです。ね。一生が修行なのだけれども、その修行がだんだんだんだん、高度なものに達してこなければならない。ね。
 それこそ、山登りじゃないけれども、どんどん自分視野が広がっていくということが楽しいのである。今まで見えなかった所が、見えてくるのが楽しいのである。ね。信心はね、もうどこまで行っても修行です。それこそ、上から読んでも山本山なら、下から読んでも山本山。それこそ浅草海苔のような苦労をさして頂くということが、そのままお道の信心の修行であります。
 そういう修行をさして頂く、その焦点がです、ただ「私が助かりたい」と言うのではなくて、ね。「あなたの心が分かりたい。あなたの思いに触れさせて頂きたい」ね。「生神金光大神を一言でも、そら真剣に唱えたい」というのが、そういう修行の形になって、やむにやまれんことになってくるのでなからなければならんのです。不思議です、ね。
 ほんとに、難儀である苦労であると思うとることがです、神様の心がちょこっと分からして頂いたら、それが反対に感動になってくる。喜びになってくる。ね。親なればこそ師匠なればこそ、このようにして、ということになる。
 今年もいよいよ残りわずかになりました。月次祭としては、今日が一番最後のお月次祭でございましたが、ね。除夜祭に、私どもが、まあここに残されておる一週間あまりの日にちをです、ね。一年中の締めくくりとでも申しましょうかね。
 新しい良い年を、(春を?)迎えさして頂く為の、まあ前提としてでもです、今までできなかった修行を取り組ましてもらい、さしてもろうて、ね、ひとつ一年中を有り難いお年であった、とお礼の申し上げれる、除夜祭にはそういうお礼のお参りができるような、または、できなかったところをお詫びをし抜かして頂く。そういう心というものを、どこを詫びていいやら分からんぐらいなことではつまりません。ね。「何のお礼を言うたならええじゃろうか」というふうなことでもできません。
 もう思うてみれば、あれもおかげこれもおかげであって、または、あそこも足りなかった、ここも足りなかったことばっかりであって、その足りなかったことを詫びさしてもらい、限りないおかげに対して心からのお礼が言えれる除夜祭でありたいと願うとるのでございます。ね。
 どうぞ、金光様のご信心はどこまでもです、「学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ」と言うのが、お道の信心の、私は修行観だと思う。ね。いつまで経ったら楽になるというのじゃない、もう一生死ぬるまでが修行である。けれども、その修行が、ね、一生借金の断りに行かなければならない、というような修行であっては、いよいよつまらん。ね。
 いよいよ、お滝の水を頂きに行くことばっかりに、のような修行が続いたのであっては、もうそれは、私は、信心のある意味においての堕落だと思う。ね。ですから、私どもが、時と場合によってはです、ね、人の真似のできんような修行もさしてもらわなければならんけれども、その修行とても、「神様の思いが願いが分かりたい、神様の心に沿い奉りたい」という一念が修行になってこなければならんことはもちろんであります。ね。
 「上から読んでも山本山。下から読んでも山本山」いつでも、どんな場合であっても、それは修行体でなからなければならない。修行の心というものはいつも、心の中にいっぱいなからなければならない。それがお道の信心だと。だからこそ、限りない、いわゆる無限のおかげに繋がっていくことができる。あの世にも、この世にも、ね、残しておけれるほどしのものが頂けれる力、または、光をです、心の中にいよいよ大きく頂いて行くということが楽しみ。光が大きゅうなっておることが、力がついていっておることが、自分に感じられる。それが楽しいのである。だから修行は厭わない。いや、その修行が有り難いのである、楽しいのである、という信心修行でなからなければならんと思うのでございます。どうぞ。


明渡 孝